10月のある朝、総務担当者は労働基準監督署から届いた一通の是正勧告書を前に固まっていた。従業員数45名のその会社では、定期健康診断の受診率が把握できておらず、実際には3名が2年近く未受診のまま放置されていたのだ。総務担当者は毎年、紙の受診券を配布し、Excelの台帳に「実施済み」「未実施」を手入力で記録していた。しかし異動や退職で担当者が交代した際に台帳の運用が引き継がれず、途中から更新が止まっていた。誰も気づかないまま1年が過ぎ、気づいたときには手遅れだったという。

さらに厄介だったのは、有所見者への対応だった。数年前の健康診断で「要精密検査」の判定を受けた社員がいたが、当時の担当者が個別に声をかけただけで、その後の受診有無も記録も残っていなかった。産業医との連携も形式的なもので、結果表は紙のファイルに綴じられたまま倉庫の奥にしまわれていた。総務担当者は「まさか自分の代でこんな事態になるとは」と肩を落としていたが、これは特別な会社の話ではない。健康診断の管理を人の記憶と手作業に頼っている企業であれば、どこにでも起こりうることだ。

なぜ健康診断の管理は属人化・煩雑化しやすいのか

第一に、健康診断の実施は年に一度のイベントであるため、業務としての優先順位が上がりにくい。日常的な問い合わせや突発対応に追われる総務・人事の現場では、年一回の業務フローが記憶からこぼれ落ちやすく、担当者の交代があればなおさら引き継ぎが甘くなる。

第二に、情報が複数の場所に分散しやすい。受診の予約状況は総務の手元、結果票は紙のファイル、有所見者へのフォロー状況は担当者の個人的なメモやメールに残っているだけ、といった具合に、一元的に確認できる場所がないケースが多い。これでは誰が受診済みで誰が未受診なのか、パッと見て判断できない。

第三に、健康診断データは要配慮個人情報に該当するため、通常の人事情報以上に取り扱いに気を遣う必要がある。その慎重さがかえって「触れにくいもの」という心理的なハードルを生み、結果として台帳の更新頻度が下がったり、確認作業が後回しにされたりする一因になっている。

放置するとどうなるか

まず法令上のリスクがある。労働安全衛生法では、常時使用する労働者に対して年一回以上の定期健康診断の実施が義務づけられており、未実施が発覚すれば是正勧告や罰則の対象になりうる。受診率の把握ができていない状態は、そもそも義務を果たせているかどうかを企業自身が説明できない状態でもある。

次に、有所見者へのフォロー漏れという人的リスクがある。要精密検査や要治療の判定が出た社員への対応が滞れば、本人の健康状態が悪化してから初めて事態の深刻さに気づく、という取り返しのつかない事態にもつながりかねない。企業には安全配慮義務があり、結果を把握しながら放置していたとなれば、責任を問われる可能性も出てくる。

そして記録の紛失という実務リスクもある。紙の結果票や個別のExcelファイルは、担当者の異動や退職、あるいは単純な保管ミスで容易に失われる。過去の結果を追跡できなければ、経年変化を踏まえた健康管理もできず、労基署の調査があった際に提出すべき記録が揃わないという事態にもなる。

仕組み化する方法

受診対象者と実施状況を一元的に見える化する

まず取り組むべきは、全従業員の受診対象者リストと実施状況を、誰が見ても分かる形で一箇所にまとめることだ。入社日や雇用形態から対象者を自動的に判定し、受診期限が近づいたら通知が出るような仕組みがあれば、担当者の記憶に頼らずに済む。属人化を防ぐ最初の一歩は、情報を個人の頭の中から外に出すことにある。

未受診者への受診勧奨をルール化する

受診期限の一定期間前にリマインドを送る、期限を過ぎたら上長にも通知する、といったルールをあらかじめ決めておくことで、声かけの有無が担当者の裁量に左右されなくなる。誰が、いつ、どのタイミングで勧奨するかを仕組みとして固定しておくことが重要だ。

結果記録とフォロー状況を紐づけて管理する

結果票を紙のまま保管するのではなく、受診記録とセットでデータとして管理し、有所見者については対応状況(産業医面談の有無、再検査の実施有無など)まで追跡できるようにしておく。これにより、フォローが必要な社員を後から見落とすリスクを大きく減らせる。

導入時の注意点

健康診断のデータは個人情報保護法上の要配慮個人情報に該当し、通常の人事データ以上に厳格な取り扱いが求められる。アクセス権限は必要最小限の担当者に絞り、誰がいつ閲覧したかの記録を残せる仕組みを選ぶ必要がある。また、健康情報の取り扱いは総務・人事だけで完結させず、産業医や衛生管理者との連携を前提に設計することが望ましい。有所見者への対応方針や面談の要否は、医学的な判断が伴うため、産業医の意見を仰ぐ体制を仕組みの中にあらかじめ組み込んでおくべきだ。

現実的な進め方

いきなり全社的な仕組みを作ろうとすると、かえって導入が止まってしまう。まずは受診対象者と実施状況を一つの管理台帳にまとめ直すところから始め、次に未受診者への通知フローを固定化する。並行して、産業医や衛生委員会と有所見者フォローの基本方針をすり合わせておく。この三つが揃った段階で、記録のデジタル化やシステム化を検討すれば、無理なく運用に乗せることができる。小さく始めて、確実に定着させることが何より大切だ。

壁を越えて働く人たちへ

健康診断の管理は、地味で目立たない業務だ。誰かの体調が守られているとき、それはニュースにならない。だが、その見えない仕事の積み重ねこそが、働く人たちが安心して力を発揮できる土台をつくっている。台帳と向き合い、通知を送り、結果を確かめる。そうした一つひとつの手間を惜しまない人たちがいるからこそ、現場は前に進み続けられる。壁を越えて働く人たちを支えるのは、派手な仕組みではなく、地道に整えられた仕組みだ。オルアナは、そうした縁の下の努力に光を当て、働く人たちの健康と挑戦を支える仕組みづくりに伴走していきたいと考えている。