6月最終週、総務担当の田中さんはデスクに前年度の賃金台帳を積み上げ、労働保険の年度更新申告書とにらめっこしていた。対象期間は前年4月から今年3月までの1年間。全社員分の賃金を一人ひとりExcelに手入力し、月ごとに集計していく作業だ。ところが電卓を叩くたびに合計額が変わる。理由はすぐに分かった。7月に中途入社した社員、10月から育児休業に入った社員、年明けに退職した社員、部署異動で雇用形態が切り替わった社員。それぞれ保険料算定の対象月数も対象賃金も違う。台帳の隅に鉛筆で「この人は9月から」「この人は2月退職だから除外」とメモを書き足しながら、田中さんは三度目の集計をやり直していた。窓の外はもう夕方で、申告期限まで残り一週間を切っている。
労働保険の年度更新は、労災保険と雇用保険の保険料を前年度の確定賃金と当年度の概算賃金をもとに算出し、6月1日から7月10日までに申告・納付する手続きだ。制度としては毎年同じことの繰り返しに見えるが、実際には多くの中小企業でこの時期になると総務担当者の残業が急増し、計算ミスや申告漏れがなくならない。なぜExcelと手作業に頼った管理は、これほど崩壊しやすいのだろうか。
なぜ労働保険の手続きはExcel・手作業管理で崩壊しやすいのか
一つ目の理由は、年度更新が年に一度しか発生しない作業だという点にある。日常業務としてルーティン化されていないため、担当者は毎年6月になるたびに「去年はどうやったか」を思い出すところから始めなければならない。前任者が作ったExcelファイルの関数がなぜその計算式になっているのか分からない、去年のメモがどこにあるか探すところから一日が終わる、といった話は珍しくない。属人化した手順書のないまま担当者が異動や退職で入れ替わると、毎年ゼロからやり方を再構築することになる。
二つ目の理由は、賃金集計の対象者が年間を通じて変動し続けることだ。入社と退社、休職からの復職、育児・介護休業、雇用形態の変更、複数事業所間の異動。それぞれのケースで保険料算定の対象月数や対象賃金の範囲が変わる。年度末にまとめて集計しようとすると、1年分の人事異動を後から一つずつ洗い出して賃金台帳に反映させる作業が発生し、抜け漏れが起きやすい。田中さんが台帳の隅にメモを書き足していたのは、まさにこの変動を後追いで拾おうとしていたからだ。
三つ目の理由は、労災保険と雇用保険で計算方法や対象範囲が異なる点にある。労災保険はすべての労働者の賃金が対象になるのに対し、雇用保険は雇用保険の被保険者資格を持つ者の賃金のみが対象だ。役員報酬の扱いや、複数の事業に従事する労働者の賃金按分など、細かなルールの違いが積み重なると、Excelの一枚のシートで両方を同時に管理しようとした瞬間に計算式が複雑化し、どこかで数式の参照範囲がずれていても気づかないまま申告してしまうリスクが高まる。
放置するとどうなるか
この状態を放置すると、実務上のリスクは静かに積み上がっていく。申告内容に誤りがあれば、労働局や労働基準監督署からの調査や是正指導の対象になり得るし、賃金集計の漏れによって保険料が過少申告となっていた場合は、後日追徴金や延滞金が発生する可能性もある。逆に過大に申告していれば、本来還付されるはずの保険料を取りこぼしたまま何年も気づかないというケースもある。
そして何より見過ごされがちなのが、担当者にかかる負荷そのものだ。年度更新の時期になると、本来の業務に加えて数日から一週間にわたる残業が発生し、他の業務が後回しになる。ミスを恐れて何度も検算を繰り返すうちに、期限直前まで作業が終わらないという状況が毎年繰り返される。これは個人の能力の問題ではなく、仕組みが年一回のイレギュラー作業として設計されていないことに起因している。
仕組み化する方法
賃金データの一元管理と自動集計
まず取り組むべきは、賃金データを年度更新のためだけに集計するのではなく、日々の給与計算の延長線上で自動的に積み上がっていく仕組みを作ることだ。給与計算システムと連動したデータベースで月次の賃金を記録しておけば、年度更新の時期にはボタン一つで対象期間の集計値を呼び出せる。入退社や休職といった異動情報も、発生の都度データに反映しておくことで、年度末にまとめて洗い出す必要がなくなる。
年度更新スケジュールのリマインド
年に一度しか発生しない作業だからこそ、人の記憶に依存しないリマインドの仕組みが有効だ。申告期限の1か月前、2週間前、1週間前といった節目で自動的に通知が届き、必要書類のチェックリストが提示されるようにしておけば、「去年どうやったか思い出す」ところから始める必要がなくなる。あわせて過去の申告内容や計算根拠を一元的に保管しておけば、担当者が変わっても引き継ぎがスムーズになる。
電子申請システムとの連携
集計したデータを電子申請(e-Gov)の様式にそのまま流し込める体制を整えておくと、二重入力による転記ミスを防げる。労災保険と雇用保険それぞれの対象範囲に応じてデータを自動的に振り分けられるようにしておけば、担当者が手作業で対象者を選別する負担も減り、計算方法の違いによる混同も起きにくくなる。
導入時の注意点
仕組み化を進める際にまず確認すべきは、自社の賃金体系や雇用形態の複雑さだ。複数事業所を持つ企業、雇用形態が多様な企業ほど、システム導入時のデータ移行や設定に手間がかかる。既存のExcel台帳をそのままシステムに移し替えるのではなく、この機会に賃金項目や休職・異動の記録ルールを一度整理しておくと、後々の運用がぶれにくくなる。また、システムを導入しても、労災保険と雇用保険の対象範囲に関する基本的な知識は担当者自身が持っておく必要がある。仕組みは判断を代替するものではなく、判断のための正確なデータを整えるものだと捉えておきたい。
現実的な進め方
すべてを一度に自動化しようとすると、かえって導入のハードルが上がってしまう。まずは日々の給与計算データを年度更新用に転用できる形で保存する運用から始め、次に異動情報をリアルタイムで反映する仕組みを整え、最後に電子申請との連携に着手するといった段階的な進め方が現実的だ。年度更新を一年に一度の特別なプロジェクトから、日常業務の自然な延長として扱えるようになった時点で、担当者の負荷は大きく下がっているはずだ。
壁を越えて働く人たちへ
年度更新の時期に何度も電卓を叩き直し、台帳の隅にメモを書き足しながら期限との戦いに追われる総務担当者は、決して能力が足りないわけではない。制度の複雑さと、年に一度しか使わない仕組みという構造そのものが、真面目に向き合う人ほど疲弊させる壁を作っている。その壁を仕組みの力で越え、本来向き合うべき人や組織の課題に時間を使えるようになった時、働く一人ひとりの持ち場はもっと広がっていく。オルアナは、そうして壁を越えて働く人たちを支えていきたいと考えている。