新規事業のプロが教える「社内調整」術

稟議を通すための「根回し」と「共犯者」の作り方

新規事業担当者の最も重要なミッションは、市場を創造することです。しかし、その前に乗り越えなければならない、最も高く、そして分厚い壁があります。それが、「社内」です。

大企業において、新規事業はしばしば「異物」として扱われます。

「なぜ既存事業の予算とリソースを削ってまで、そんな不確実なことをするのか?」 「前例がないため、リスクが大きすぎる」 「うちの部署に何のメリットがあるのか?」

既存事業の論理で動く組織の中で、前例のない新しい挑戦を進めるためには、市場との戦いの前に、まず「社内での理解と協力」を勝ち取らなければなりません。多くの優秀なアイデアが、市場ではなく、この「社内調整」という名の沼に沈んでいきます。

社内調整とは、単なる「稟議書を綺麗に書くこと」ではありません。それは、「抵抗勢力を味方につけ、事業成功の共犯者(スポンサー)を組織内に戦略的に配置する」ための、高度なコミュニケーション技術であり、政治的手腕です。

このコラムでは、大企業で新規事業を成功させてきたプロが使う、「社内調整」の具体的な戦術を徹底解説します。稟議書作成の裏側にある「根回し」の哲学から、協力体制を構築するための具体的なコミュニケーション術までを学び、あなたのアイデアをスムーズに事業化するためのロードマップを手にしましょう。

Ⅰ. なぜ新規事業の「稟議」は通りにくいのか?

既存事業と新規事業の論理が根本的に異なるため、従来のプロセスでは摩擦が生じます。この摩擦の核心を理解することが、戦略の第一歩です。

1. 既存事業の論理:リスク回避と再現性

既存事業は、「リスクを最小限に抑え、過去の成功を再現すること」で利益を生みます。そのため、「前例がない」「失敗の可能性が高い」という新規事業は、本能的に排除の対象となります。

  • 稟議の壁
    担当者が知りたいのは、「成功する可能性」よりも、「失敗した場合の責任の所在とリスクの大きさ」です。

2. 評価軸のズレ:「効率」 vs. 「学習」

既存事業の評価軸が「効率性」と「目標達成率」であるのに対し、新規事業の初期フェーズの価値は「市場からの学習」と「高速な検証」にあります。

  • 摩擦
    新規事業担当者が「顧客ニーズの検証に失敗しました。しかし、貴重な学習が得られました」と報告しても、既存事業の論理では「失敗」としてしか評価されません。この評価軸のズレが、社内の協力体制を阻害します。

3. リソースの「ゼロサムゲーム」

新規事業は、既存事業から予算、人材、担当者の時間というリソースを奪います。既存事業側から見れば、あなたの挑戦は、自部門の目標達成を脅かす「敵」と映りかねません。

Ⅱ. 稟議書作成の「前」に行うべき戦略的根回し術

稟議書を提出する前に、成功を確実にするための「地ならし」が必要です。承認プロセスを「形式的な通過儀礼」に変えるための根回し術を解説します。

1. 「反対勢力」を「リスクヘッジの協力者」に変える

あなたの事業に最も反対する部署こそ、最も早くアプローチすべき対象です。

  • ターゲット
    経理・財務部門(コスト)、法務・コンプライアンス部門(リスク)、現場の業務部門(手間)。

  • 戦略
    彼らに「承認」を求めるのではなく、「リスクと課題の洗い出し」を依頼します。「私たちのアイデアには、〇〇という法的リスクや、費用対効果の課題があるかもしれません。知見を持つあなたの部署の助言をいただきたい」と、リスクヘッジの専門家として敬意をもって相談します。

  • 効果
    反対意見は「事業への攻撃」ではなく、「事業の質を高めるためのフィードバック」に変わり、彼らは「事業のリスクを事前に特定した協力者」としての責任感を持つようになります。

2. 影響力のある「キーパーソン」を「スポンサー」にする

正式な承認ルートとは別に、あなたの事業を「擁護し、リソースの壁を突破してくれる影響力のある人物」を確保します。

  • ターゲット
    経営層、特に事業のビジョンに共感してくれる役員、または高い実績を持つ他部署の部長クラス。

  • 戦略
    彼らに「事業のビジョンと、あなたが抱える社内の課題」を正直に共有します。「あなたの権限とご支援がなければ、このイノベーションは潰れてしまいます」と、「挑戦の意義」と「支援の重要性」を訴えかけます。

  • 効果
    スポンサーは、あなたの稟議が部門間の摩擦で停滞した際に、政治的な力を使って「鶴の一声」を出してくれる安全弁となります。

3. 「感情」に訴えかけるストーリーの設計

稟議書は論理で書かれますが、最終的な承認は「人の感情」で行われることが多々あります。

  • 戦略
    「誰の、どんな深刻な課題を、この事業が解決するのか?」という顧客のストーリーを冒頭に持ってくる。数値だけでなく、「この事業が成功すれば、会社が3年後にどう変わるか」という、承認者にとってワクワクする未来を提示します。

Ⅲ. 関係部署の「協力体制」を構築するコミュニケーション術

リソースの協力を得て、事業をスムーズに進めるための具体的なコミュニケーション戦術を解説します。

1. 「与える利益」を明確にする(WIIFM原則)

協力関係を構築するための大原則は、「WIIFM(What’s In It For Me?):私にどんなメリットがあるのか?」に答えることです。

  • 戦略
    協力を依頼する際、「あなたの部門にとっての利益」を具体的な言葉で伝えます。

    • 経理部へ
      「このデータ分析ノウハウは、既存事業のコスト構造分析にも応用できます」

    • 営業部へ
      「初期の顧客獲得に成功すれば、将来的には既存製品のクロスセルの機会を生み出せます」

    • 技術部へ
      「この最新技術のPoCに協力することで、あなたのチームのスキルを最先端に引き上げることができます」

  • 実践
    相手の評価項目や課題を事前にリサーチし、あなたの事業がその課題解決に貢献できる点を強調します。

2. 「報告」ではなく「相談」で責任を共有する

一方的な報告は、協力者に「作業の押し付け」と受け取られかねません。協力者を「共同の意思決定者」に変える必要があります。

  • 戦略
    「相談」という形式を取ります。「私たちだけでは判断が難しい課題Aについて、あなたの専門的な視点から、BとCどちらの解決策がベストかアドバイスをいただけますか?」

  • 効果
    協力者は、意思決定に参加することで事業への当事者意識を持ち、その後の実行段階でも積極的に協力してくれるようになります。さらに、失敗した場合の責任も共有するため、心理的なプレッシャーが軽減されます。

3. 「小さな勝利」の情報を共有し続ける

新規事業は、長期戦です。協力者のモチベーションを維持するためには、「前に進んでいる」という感覚を持続的に共有する必要があります。

  • 戦略
    毎月の定例報告で、売上や利益が出ていなくても、「MVPの顧客満足度が〇〇%改善した」「初期顧客から〇〇という感動的なフィードバックを得た」といった、「小さな勝利(Small Wins)」を具体的に伝えます。

  • 実践
    協力してくれた部署の貢献を、全社的な場で具体的に称賛する(例:「今回の〇〇部の協力がなければ、このPoCは実現できませんでした」)。これにより、協力者は「自分たちの貢献が認められている」と感じ、次の協力に積極的になります。

Ⅳ. 最後に:「社内調整」は最大の事業リスク回避である

社内調整は、面倒で非本質的な作業に見えるかもしれません。しかし、大企業において、「社内摩擦」こそが、新規事業の最も大きな事業リスクです。

稟議書を通す技術だけでなく、「いかにして社内の抵抗勢力を味方につけ、彼らを事業成功の共犯者に変えるか」という政治的・戦略的な視点こそが、新規事業担当者に求められるプロのスキルです。

あなたの情熱とアイデアを、社内の論理という冷たい壁にぶつけて消耗させるのではなく、この「社内調整術」を駆使し、組織全体の力を味方につけて、イノベーションを成功へと導いてください。

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